『もうちょっとだけ』|親孝行大賞受賞作品

愛知県稲沢市
菱 川 町 子様の作品

ふわっと浮いたと思った瞬間、地面に叩きつけられ激しい衝撃が体を襲った。やってしまった。落馬したのだ。乗馬歴30年だというのに……。ガイドは慌てて車を呼び、私を病院に連れて行った。レントゲン写真を見るなり医者は言った。

「鎖骨骨折です。肋骨も2本折れていますので手術が必要です。家族を呼んでください」

私は娘に電話しなければならないと知り、折れた鎖骨より頭が痛くなった。76にもなってまだ馬にうつつをぬかし、挙句の果てに骨折・手術と聞いて娘はどう思うだろう。

「九州で馬に乗って来るよ」
「落馬しないでね」
「好きで落馬してるんじゃないの!」

馬旅行前のお決まりの会話だ。確かに私は、これまで背骨の圧迫骨折、左手首、肋骨、今回の鎖骨とご丁寧に4回も骨折している。

その中にはこともあろうにオーストラリアで落馬し、肋骨骨折で肺に穴が開いた。飛行機の着陸時の減圧で肺から空気が漏れ、死に至る恐れがあると言われ、穴が塞がるまでの3週間、オーストラリアで療養生活をした事もある。

いい歳をした母の度重なる落馬、骨折に娘はどれ程心配した事だろう。これ以上迷惑をかけたくない私は、今回こっそり手術を受け、何食わぬ顔をしてすませようと思った。

しかし、病院としては手術や麻酔で何かあった時、家族にいてもらう必要があるのだ。私は仕方なく電話した。できの悪いやんちゃ坊主が母親に通知表を見せる気分だ。

「もしもし、また落馬しちゃった。手術するんで、明日病院に来て」
「えっ、手術…… 明日……」

パート務めの娘は、私からの突然の呼び出しに驚いた。いきなり「明日来て」に、文句は言ったがそれ以上は言わなかった。しかし職場の同僚達には、

「とんでもない母親だね」

と言われたらしい。手術の経過は順調で、10日ほどして退院した。久しぶりの我が家での入浴に心が弾む。腕が上がらないので娘に脱がせてもらい、浴室で見守ってもらう。

「母さん、治ったらまた乗るんでしょ」
半ば諦めたように娘は呟く。
「心配かけるね。ごめん」
「くらーい顔して一日中家にこもっているより、笑顔で走り回ってくれた方がいいよ」

娘は手桶で私の肩にお湯をかけてくれる。お湯はビロードのような肌触りで、ほっこりほっこり流れていく。心まで包み込むような温かさだ。母と娘の関係が見事に逆転した瞬間だった。

私は野外騎乗が好きだ。モンゴルを始めオーストラリア、アメリカなど世界各地を馬で駆けまわって来た。娘は嬉々として馬に乗る年老いた母に、「馬に乗る事はやめて」と言った事は一度もない。

一人娘の自分が他家に嫁ぎ、夫に先立たれ一人暮らしを余儀なくされた母の寂しさが、馬に乗る事で解消できるならと、言いたい事を胸に収めているのだろう。

私の気持ちに寄り添ってくれる娘よ。母は感謝しているよ。でも、もうちょっとだけ我慢してね。

最新情報をチェックしよう!
>プチ紳士・プチ淑女を探せ!運動とは?

プチ紳士・プチ淑女を探せ!運動とは?

ゆっくりでいい。一歩ずつでいい。
自分のできる範囲でいいから、
周りのことを思いやる世の中を作ろう。