『おばちゃん、元気かなぁ』|ちょっといい話 志賀内泰弘

サラリーマンをしていた頃の話です。

仲良しのおばちゃんがいました。歳は還暦を過ぎたくらい。私の胸ほどしかない小柄な人でした。

私は、8階建てのビルの5階のオフィスに勤めていました。毎日、そのビルの5階のトイレに行きます。

すると、週に1、2度の割合で、そのおばちゃんとトイレで会うことができました。そう、その相手とは清掃会社から派遣された掃除のおばちゃんでした。

ある日、仕事が忙しくて、ずっと我慢していました。
「もうダメだ!」
と、走ってトイレに駆け込みました。

ところが、そういう時に限って、入口に「清掃中」の看板が立て掛けてあるのではないですか。仕方がない。下の階のトイレまで行くしかない。

でも、ひょっとして・・・と思い、トイレの中に向かって、
「いいですかぁ~」と声をかけました。
すると、
「どうぞ~」という返事が聴こえました。
それが、私とおばちゃんとの最初の出逢いでした。

その後、
「おはようございます」
「今日はいい天気ですね」
などと、と挨拶をするようになりました。
やがて、
「もういやになりますよ。人のミスを押し付けられて」
などと、仕事の愚痴まで聞いてもらうようになりました。それだけではなく、昼休みには一緒に喫茶店でお茶をしたこともありました。

ある日、おばちゃんに、こんな話を聞きました。おばちゃんは自宅の台所やトイレで、手作りの化繊の毛糸のタワシを使っていました。

あまりにもよく汚れが落ちるので、勤め先の上司に提案をしたそうです。
「これ、派遣先のビルでも使っていいですか?」
と。
すると、一言。
「よけいなことは考えんでもいい」
おばちゃんは、ちょっと気落ちしましたが、今まで通りに与えられた道具で掃除をしたそうです。

しばらくして、清掃会社を変わることになりました。新しい会社の上司にも、再び恐る恐る同じ提案をしました。
「これを使うとキレイになるんですが・・・」
すると、開口一番、
「やってみなさい」
と言ってくれたそうです。

すると、効果てきめん。落ちにくかった水あかが、スーッと落ちたのです。やがて、その手作りの化繊のタワシは、同僚たちの間にも広がりました。

それだけではありません。おばちゃんが勤める清掃会社全体でも採用されるまでなったというのです。

おばちゃんは、一事が万事。掃除道具や掃除のテクニックについて実に研究熱心。仕事に対する熱心な姿勢には頭が下がるばかりでした。

おばちゃんとの出逢いは、サラリーマン管理職の私にとって、ものすごく「学び」になりました。そうです。部下の意見には、素直に耳を傾けるということです。
 
あれから、20年近くが経ちました。私はその後、会社を辞め、作家になりました。

しばらくの間、年賀状のやりとりをしていましたが、ある年「転居先不明」で返送され音信不通になってしまいました。
おばちゃん、元気かなぁ。

ビルの中のトイレに入ると、ときおり、おばちゃんの顔を思い出します。

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