田原市の伊藤ちよのさん(66)は45年前、酪農業の家に嫁いできた。家族全員が朝早くから晩まで働いている。120頭の乳牛の世話に休みなく追われる毎日だ。
伊藤さんは、その他にも経理の仕事や社員の管理、もちろん家事もこなしている。家族がお互いのことを気遣う余裕がないほど忙しく、それこそ、人より牛が大切といった具合という。
そんな中、膝の手術のため一カ月間の入院を余儀なくさせられた時のこと。
隣の病室の前を通ると、おばあさんの声が聞こえてきた。「おじいさん、おじいさん。目を開けてご飯を食べりん」(三河弁)。おじいさんはつらそうな様子で「あーあー」と言葉にならない声で答える。
それは「痛いよー、苦しいよー」と、おばあさんに訴えているかのように聞こえた。
完全看護なので付き添いは必要ない。でも、そのおばあさんはほとんど24時間、付きっきりで世話をしている。部屋の前を通るたびに、カーテン越しに小柄でかわいらしいおばあさんが「おじいさん、おじいさん」と呼び掛けている姿が見える。
長いこと連れ添った奥さんに介護してもらい、病はつらいだろうけど、それでもなんて幸せなんだろうと、うらやましくもほほ笑ましく思えた。
「まだリハビリ中で思うように仕事ができませんが、退院早々、忙しい生活に引き戻されてしまいました。私の老後も、あのご夫婦のように素晴らしい会話ができるだろうかと思いました。
とても自信がありません。おばあさんの『おじいさん、おじいさん』というやさしい声。今もお二人の姿がとても尊く思えます」
と伊藤さんは話す。
<中日新聞掲載2014年5月25日>