【親孝行大賞】いい話で感動した賞 「弟の供養」

<代表作品>大阪府豊中市 大阪のアン様の作品

昭和20年8月、ソ連軍が樺太に侵攻し、我が家の近くでも戦闘があった。弟は母に抱かれ、私は手を引かれて逃げ惑った。地上戦は沖縄だけでなく、樺太でもあったのだ。やがて樺太はソ連に占領され、我が家は接収された。

すぐの引き揚げは叶わなかった。追いやられた家は掘立小屋で、トイレも風呂もなかった。そこで終戦1年目の冬を迎えた。隙間風が吹き込み、家族が体を寄せ合って暖を取った。
「風邪を引かないように!」と、母。
樺太の冬の寒さは厳しい。ちょっと油断すると風邪を引く。暖房は火鉢だけだった。5月に入っても雪はあったが、昼間は春の陽射しが眩しかった。誰も風邪を引くことなく、あの極寒の冬に耐えたのであった。

10月に入ると、早くも2年目の冬が到来し、初雪が舞った。
「今年は、冬が早いわね」
母は誰に言うともなく言った。食料が不足がちで、お腹はいつも空いていた。それで、体の中から体を温めるエネルギーは湧いてこなかった。

そんな中、弟は風邪を拗らせ、母に抱かれて亡くなった。医者は見つからず、薬も手に入らなかった。あの気丈夫な母が、人前も憚らずに大声で泣きじゃくった姿が、今でも私の脳裏に焼き付いている。

引き揚げ船に乗れたのは、昭和22年だった。
「必ず迎えに来るわよ!」
タラップを上りながら、母は岸壁に向かって叫んだ。

子を亡くした親の気持ちが分かるようになったのは、結婚して子供ができてからであった。母は外務省やソ連大使館と連絡を取ったが、異国の故郷はもう遥か手の届かない所に行ってしまっていた。
「私は行けないけど、お前が迎えに行けるといいね」
病気がちの母は、いつしか私にその役目を期待していた。

私は外務省、全国樺太連盟、ロシア大使館と接触してアドバイスをもらい、いろいろと難しい手続きを経て、やっと樺太を訪れることができた。我が家のあった辺りで弟の供養をし、「母の待っている日本へ帰るぞ!」と、小石を一個拾い上げた。ホテルに戻って、小石を洗い磨いた。石の表面に弟の姿が浮かび上がったような気がした。

帰国後、母にその小石を届けると、ことのほか喜んでくれた。小袋を作ってその中に入れ、首から下げていた。気がかりが消え、それでほっとしたのだろうか、3か月後母は帰らぬ人となった。

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