拙著「京都祇園もも吉庵のあまから帖」シリーズの取材のため、ひんぱんに京都を訪れます。
大徳寺の広い境内に、大慈院という塔頭があります。その院の中にある、精進料理で有名な「泉仙」で食事をした時のことです。箸袋を広げると、こんなことが書かれていました。
「有漏路より無漏路にいたる一休
雨ふらは降れ風ふかはふけ」
なんのことかさっぱりわからず調べてみました。
「有漏路」とは、煩悩 (ぼんのう) にけがれた迷いの世界のこと。「無漏路」とは、煩悩 のない清浄な世界、悟りの境地のことを言うそうです。
ということは、人は、迷いの世界から悟りの世界へと努めて歩いて行くものだ。しかし、ちょっと一休みした方がいい時もある。自然の力や、どんなに頑張っても自分の努力だけではかなわない不条理な事にも遭うことがあるからだ。
雨が降るときは、抗わずに一休みする。
風が強いときにも、あたふたせず、ひと休みする。
ここらで、ちょっと日一休み・・・。
志賀内の勝手な解釈なので、ごめんなさい。でも、「ちょっと一休みをして、料理をお楽しみください」という、亭主からのメッセージではないかと受け取りました。
さらに、絵馬の形をした枠(禅寺で食事などの合図として使われる木版の形だそうです)の中に、こんな言葉が書かれていました。
「生死事大
無常迅速
光陰可惜
慎勿放逸」
「放逸」という言葉だけがわからなかったので、またまた調べてみると、仏教の煩悩の一つで「まなけること」を言うそうです。
ということは、人生において、生と死はもっとも大きな問題だ。
なにしろ、世の中のすべてのものは、常に生滅流転して変わってゆく。そこにそのまま留まることは何一つない。愛し合っているカップルも、必ずどちらかが先にあの世に逝く。立派な家も車もいつかは朽ち果てる。永遠不変のものはないのだ。
平家物語の冒頭にも「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」とあるように、人生とははかないものなのだ。そして、光陰矢の如しというように、そのはかない人生は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
だから・・・いや、かといって。はかなんでばかりいる必要はない。
だからこそ、今日一日、この瞬間を怠け過ごしてはならない。
その日その日、一瞬一瞬を懸命に生きよ・・・。
たぶん、そんな意味なのだろうと思います。そんなことを考えつつ食事をしたので、なんだか修行僧のような気持になってしまいました。
さて、水物をいただいて一服していると、長押(なげし)に掛けられた額の文字に目が留まりました。
「古今無二路」
ここんにろなし。
これも、禅の言葉です。
今も昔も、賢者が目指して歩いてゆく道は一つ。
進むべき正しき道をひたすら歩みなさい。
そんな意味でしょうか。
禅寺では、食事をつくることと、それを食することは座禅をすることと同じように大切な修行であると考えられています。まさしく、精進料理を食べて、お腹だけでなく、胸までいっぱいになってしまいました。