『母の教えのおかげで、今がある』|ちょっといい話 志賀内泰弘

今から46年前。高校に入学して、新しい環境に少しばかり慣れた6月の話です。

梅雨のさなかで、空がぼんやりと曇った日でした。いつものように、朝食をお腹に詰め込むと慌てて家を飛び出しました。
バスに乗ったところで、ハッとしました。
乗客の何人かが、手に傘を持っているのです。そうです。どうやら雨の予報が出ていたらしいことがわかりました。心の中で、
「どうか一日もちますように」
と祈って登校しました。

下校時間を待たず5時間目に降り出してしまいました。でも大丈夫。私は「置き傘」があるからです。ずいぶん以前に、朝、出掛ける時に降っていた雨が、帰りには止んでしまったので、差して来た傘を傘立てに置いたまま帰ったことがあるのです。その傘を6時間目の授業の始まる前に傘立てに確認しました。

さて、6時間目の授業が終わり、担任の先生に呼ばれたか何かで職員室へ行きました。用事を済ませた頃には、雨はザーザー降りになっていました。

たしか、テスト週間の少し前だったと思います。全校生徒は、部活が休みで、速やかに下校するように促されていました。私も、急いで帰ってテスト勉強をしようと思いました。

ところが、です。傘立てに私の「置き傘」が見当たらないのです。そうです。私と同じように、傘を忘れてしまったクラスメイトが、私の「置き傘」を持って帰ってしまったと思われました。その他にも、何本かの傘が傘立てにありました。誰かが置いていた傘を拝借しようかと思いました。

もうほとんど生徒は教室にいません。一日借りたとしても、誰も困るわけではないのです。しかし、それはためらわれました。

私と同じように、授業が終わった後、校内のどこかに用事があって、出掛けているクラスメイトがいるかもしれない。その生徒が教
室に戻って来て、「さあ、帰ろう」としたら傘がない。そういう可能性もあると思いました。

傘立ての前で、そんなことを考えていると、クラスメイトの女の子に声を掛けられました。

「どうしたの?」
「僕の傘、誰かが持って行ったらしい」
「あら」
「誰のかわからないけど、置いてある傘を借りようか悩んでるところ」
「わたし、机の中に、折り畳みに傘を入れてあるから貸してあげるわ」
「え?いいよ、悪いから」
「ううん、こういう時のための置き傘だから」

そう言い、机の中から取り出しました。いかにも女性用という感じの、ビンクの花柄の傘でした。でも、濡れて歩くよりはいいと思い、借りることにしました。

家に帰ると、母親が玄関にやって来ました。
「なに?その傘。傘を持って行かなかったみたいだから心配してたのよ」
そう言う母親に、事情を話しました。すると、
「よかったわね、いいお友達がいて」
と言いました。でも、その女の子とはほとんどしゃべったことがありませんでした。友達と呼ぶには程遠い感じです。

さて、その翌朝のことです。
借りた傘を返そうと、カバンの中に仕舞おうとしていると母親が言いました。
「その傘、貸してごらんなさい」
「なに?」
「そのまま返してはダメよ」
「なんで?」
「傘を借りたら、庭でお日様に当てて乾かすの。そしてタオルでキレイに拭いてから返さないと」
「めんどくせえ」
「いいから貸してごらんなさい。お母さんがやっておいてあげるから」
そう言うと、母親は折り畳みの傘を手にし、私を送り出しました。
登校すると、女の子に、
「昨日は助かったよ、サンキュー。明日返すね」
と言うと、
「いつでもいいわよ」
と答えました。

そして翌々日の朝。母親は、私が出掛けようとすると呼び止めました。
「キレイにしておいてあげたから」
と、傘を差しだしました。私は不器用で、折り畳みの傘を畳むのが苦手です。しかし、洋裁が得意でどんなものでも作ってしまう母親が畳んだ傘は、新品かと思えるほどキレイに見えました。
「それからね、これデパートで買って来たから、お礼とだと言って渡しなさい」
「なに?」
「ハンカチよ」
「いいよ、そんなことしなくても」
母親は、ちょっと厳しい口調で言いました。
「物を借りたら、きちんとキレイにして返す。そして、そのお礼をしなくちゃだめなの。いいから、コレ持って行って渡しなさい」
有無を言わさぬ感じで渡されました。

登校すると、一番で傘を返しました。そして、デパートの包装紙のハンカチを差し出し、
「これお礼・・・あれがとう」
と言いました。彼女は、目をパチクリさせ驚いた表情をしましたが、スーッと手を出して受け取りました。
「ありがとう。ひょっとして、お母さんが買ってきて下さったの?」
「う、うん」
「きちんとされているのね。お母さんによろしくね」
彼女には全部お見通しでした。

47年前の小さな出来事です。でも、はっきりと一つひとつのシーンを覚えています。単純なことですが、母親のこの教えをその後の人生において守って来たからに他なりません。

小さな親切でも、受けた恩にはきちんとお礼をする。借りた物は、借りた時よりキレイにして返す。母親は亡くなってしまいましたが、今も私の心の中に「こういう形」で生きています。

ところで、おそらく読者のみなさんは疑問を抱いておられることでしょう。
「その女の子とは、どうなったのか?」
残念ながら、それっきりでした。きっとチャンスだったに違いありません。でも、勇気がなかったのですね。まだ人を見る目がなかったからに違いありません。

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